グローバルパーソンとは: アメリカ発、新時代の日本へ送るメッセージ 第9回: 恥の文化、罪の文化  
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第9回 恥の文化、罪の文化



一方、合理主義のアメリカでは、「みっともないから」とか「恥になるから」という理由はあまり重要ではなく、また、他人が何を持っていようが、はしゃいでいようが、お互いに自分とは無関係だと思っているので、そのようなことに「恥」を感じる必要もないのです。前例の子供への注意であれば、アメリカの親たちは、“Stop it! You can hurt yourself!”(そんなに騒ぐとケガをしますよ!)と注意するだけでしょう。

 

日本人の言動の判断に「恥の意識」が関係しているとすれば、アメリカ人の場合はむしろ「罪の意識」です。アメリカ人にとって、何をするべきかという判断の基準になるのは、他人の目を気にした「恥」ではなく、当事者自身がどう感じるかであり、そのより所となるのは、カトリック文化の根底にある「罪の意識」なのです。確かに、子供が楽しくはしゃいでいても、それは「罪」とは言えません。親にとっては、人への迷惑よりも自分の幸福感が先になり、また、それを見ている人も、しかたなくそれを認めることになるのでしょう。

 

また、宗教心がそれほどない人でも、日本と違って、社会や会社などの大きな体制に頼らない(あるいは頼れない)アメリカ人は、公正さや善悪を判断するのは自分自身だと考えており、他人がどう思っているかはあまり関係ないのです。そして、誰かが「罪の意識」の反動で、「公正さ」や「フェア精神」を主張するとき、それが多民族間の共通項のようになって、たちまち、まわりの人たちがこれに同調することになるのです。

 

空港のチケットカウンターなどで、文句を言ったり、自分の主張を通すために、まわりの人にはお構いなしに長時間粘っていたりするアメリカ人をよく見かけます。日本人なら、「待つ人の迷惑も考えず、どういう神経をしてるんだ!」と文句を言いたくなるのではないでしょうか。でも、アメリカ人の目から見れば、「待たされて困る」という素直な気持ちと同時に、「今はこの人の番だから我慢しよう。その代わり、自分の番が来たら思う存分時間を使うぞ。それでお互いフェアだ」という気持ちになるわけです。

 

 


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