日本人パイオニアが語る Once upon a time in America: 第1回 47年前に女性留学生としてアメリカに渡った 村瀬成子さん  
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日本人パイオニアが語る

Once upon a time in America

 

第1回: 47年前に女性留学生としてアメリカに渡った 村瀬成子さん

 

 

 

村瀬成子さんのProfile

1931年 青森県十和田市(現)に8人兄弟の末娘として生まれる
1956年 日本女子大学を卒業後
立教大学大学院で社会福祉を専攻し渡米
1961年

University of Pennsylvaniaで社会福祉学修士過程を卒業
Philadelphia YWCA(元 PhiladelphiaのYoung Women Christian Association)に勤務

1965年 結婚してSan Franciscoへ移転
3児の母となる
1972年 S.F.公立学校の日英併用教育推進委員
CA州教員免許を取得し日本語講師
Community advisoryとして活躍
1978年

City & County of S.F.のDepart of Social Serviceに就職

1992年 City & County of S.F.のDepart of Social Serviceを退職
茶道表千家教授として米国内で日本文化を伝え、今日に至る

 

"ハイカラ"な少女時代

 

私が生まれる5日前に、三沢淋代海岸からWashington州Winatchまでの太平洋無着陸横断飛行が成功しました。父がその事業に関わりがあったことから、「おうだんせいこう」に似た響きの、「太田成子(旧姓)」と名づけられました。生まれた時から海を渡る運命にあったのでしょうか(笑)

 

父が元海軍の軍人だったせいか家には外国人のお客様も珍しくなく、当時で言えば"ハイカラ"な家庭で、庭でトマトやアスパラガスなどの西洋野菜を栽培したり、その頃まだ珍しいカレーライスやチーズも食べました。しかし、世間ではまだ"ガイジン"とか"舶来もの"が珍しがられる時代で、外国人がうちに来ると近所のひとが覗きに来たり、学校で作文を書かされたりもしました。生徒の殆どが和服で学校へ通っていた頃の話ですから、無理もありません。

 

高等女学校の時に(第二次世界大戦の)終戦を迎えました。大学進学を目指して、男女共学になったばかりの元男子校へ編入しました。ところが、たった3ヶ月通っただけで県の教育長から「待った!」が掛かりました…「男女共学は時期尚早である」と(笑)。まだまだ、そんな時代だったんですよ。



留学生として渡米

 

留学を志したのは、知人の勧めからでした。三沢基地にいた米民間人の技術者ご夫妻と親しくなり、「あなたのように社会福祉を勉強する学生は貴重だから、ぜひ留学しなさいと勧められ、その気になりました。結婚にあまり興味がなかったせいもあるかしらね(笑) 

 

アメリカンフレンド奉仕団のWilson夫妻のお力添えで、Pennsilvenia大学の大学院に入学することになりました。1ドル=360円の固定相場の時代、日本政府にもドルの持ち合わせが無かったのでしょう。学生ひとりにつき33ドルの支給でしたが、大学婦人協会から旅費を、大学からは年2700ドルの奨学金、奉仕団からも生活費をいただけることになりました。

 

日本の大学院を卒業した58年に、留学生として貨客船で13日掛けて太平洋を横断しました。今ならたったの10時間(笑) 乗客はたったの7人でしたが、楽しい旅でした。父が海軍だったから、船酔いしなかったのかしらね(笑) 太平洋の真ん中から日本にいる母に、"タ・ノ・シ・イ・タ・ビ"と打電したのを覚えています。

 

Seattleに着いた日はちょうど独立記念日で、迎えて下さった東海林牧師が歓迎のディナーを催して下さり、大きな七面鳥の丸焼きや骨付きのバーベキューを見てびっくりしました。日本ではまだ肉類が豊富に手に入らない時代だったのです。

 

Seattleを後に、独りで汽車で2泊3日をかけて大陸を横断し、Philadelphiaへ向かいました。東洋の女性の一人旅は周囲の乗客の目には奇妙に映ったようだけれど、みなさん親切でしたよ。途中Chicagoで乗換えるのを知らなくて慌てたり、黒人の赤帽(駅の荷物運搬係)が鞄を運んでくれて生まれて初めてのチップを渡しました。たしか25¢あげたら、「レディ、こんなでかい荷物なのに25¢じゃ足りないよ」と文句を言われちゃったわ(笑) 終点のPhiladelphiaでも予定とは別の駅に汽車が着いてしまい、駅の構内放送で何度も名前を呼ばれたらしいのに、本人はまるで気がつかなかった(笑)やっとのことで出迎えのWilson夫妻に再会しました。



他人を援助する前に、まず自分を知る

 

Pennsylvania大学での専攻も社会福祉で、課題の一環として、乳児院や老人ホーム、託児所、家庭訪問など、アメリカの様々な社会事業や福祉施設を体験しました。

大学の教育理念、他人を援助する前に、まず自分を知らねばならない」に従い、毎週教授から精神分析を受けました。自分の感情をあからさまに表に出さないこと、他人への悪い感情や嫉妬心を隠すことが美徳とされていた日本人の私にとって、この分析は激しい葛藤でした。自分を赤裸々にすることの苦しさを体験したのです。週末は宿題に追われました。

 

夏休みは毎年いろいろな団体の経営するキャンプで働きました。低所得者の子供たちに自然の中で生活体験をさせようというプログラムで、楽しい思い出と共に多くを学びました。ある時キャンプに日本からの一行が訪れ、「今晩のご馳走はスキヤキだよ」と聞いて楽しみにしていましたら…なんとも得体の知れない味のビーフシチューが出されましてね。日本の代表がお土産に渡した"味の素"の使い方が解らなかった料理人が、"味の素"をひと箱分いっぺんにお鍋に入れてしまったのだとか(笑)

 

同じアパートにインド人留学生、リベリア(アフリカ)からの留学生と3人で住み、交代で食事を作りました。スーパーに買い物にいくと、インド人のRenukaは必ずリンゴを、アフリカ人のEasterはジャガイモ、私はバナナを買ったものです。当時日本ではバナナがとても珍しく、インドではリンゴのほうが珍しく、アフリカではジャガイモが獲れないからとても高価で結婚式やクリスマスなど特別な時にしか食べられなかったそうです。豊富な種類の食材に溢れていたアメリカのスーパーマーケットは、女の子たちにとって魅力的な場所でした。

 

 極東の敗戦国からやってきた苦学生が気の毒に見えたのでしょう。クリスマスには地元の奉仕団体の方々が、ひとり$20ずつもお小遣いを送ってくれました。コーヒー1杯が5¢、週に$30で十分暮らせる物価でしたから、豪勢なお年玉(?)をいただいたものです(笑)

 


就職、結婚、子育て

 

61年に卒業しPhiladelphia YWCAへ就職しました。私の初仕事は、地域の低所得者の子供たちの放課後や週末の活動を運営することで、子供の多くは黒人でした。クラスでお裁縫を教えたところ、「本当に黒人の子供たちがミシンのお裁縫をおぼえたの?!」と、白人の先生方はびっくりしたものです。

折しも公民権運動が盛んになり、連邦政府が黒人の社会教育に力を入れ始めた時で、Dr.Martin Luther King牧師の講演を聞き、人権問題に疎かった自分を反省しました。

忘れられないのは、Academy of Music Hallに観に行ったオペラ"トスカ"の中で、黒人のプリマドンナLeontyn Priceと白人歌手が抱擁する場面で会場にどよめきが起こったことです。有色人種のステイタスが未だ低かったその頃、それは歴史的な抱擁だったのです。

1964年にケネディ大統領が暗殺され、市内は真っ暗になったようでみんなが喪に服しました。

 

翌年、Columbia大学で教鞭をとっていた主人と結婚しました。新婚旅行は、"10 Dollars a Day"という旅行ガイドを片手の、半年間の世界一周の旅でした。

日系ニ世の主人は、第二次大戦中にアリゾナの日系人収容所に入れられていた経験を持ちます。

 

翌年N.Yで長女のEmily、67年には次女Miriumが産まれ、主人が生まれ育ったCaliforniaに戻ってきました。スーパーで、"Baby Sitter Coop"という貼り紙を見つけました。20人ほどのグループの母親が交代で子供たちの面倒をみて事務係が時間を記録し、お金でなく時間で公平に子守の交換をする…という合理的な集まりです。異国での子育てに大変助かりましたし、家族ぐるみの友人もできました。

 


日英併用教育と社会福祉活動

 

長男が幼稚園に入る時に、日系2世、3世の父母と一緒に、英語と日本語を併用した教育制度の設立をSF市の教育局に申請しようと、教育委員会に陳情したり、日本街で賛成の署名を集めたりと頑張りました。73年にEmerson小学校で、アメリカでは珍しい公立小学校での日英併用教育が導入され、中学・高校にも日本語課が設けられました。お陰で、私の子供たちは全員がバイリンガルです。

 

子育てにも慣れた頃、真剣に再就職を考えました。San Francisco大学で"小学生のための新しい数学"を学んでCalifornia州の教員免許を取り、日英併用教育プログラムのSpecialistとしてMorning Star Schoolに採用されました。8割以上の子供が日本語を第一言語とする私立校でした。

その後San Francisco市の公務員試験に受かり、78年に市の社会福祉局の児童福祉司となりました。家庭で放任、虐待されている子供たちを保護するのが私の仕事でした。なんらかの理由で両親が自分の子供を世話できなくなった場合に法律的な手続きをとって里子に預けたり、繰り返し指導しても親が親としての務めを果たせない状況と判断すれば親権を放棄させて他の家族と養子縁組をさせるなど、アメリカ社会の暗い深層問題に触れる仕事でしたが、大変やりがいがありました。

 

社会福祉局へ勤めた14年の間に自分の子供たちは学校を卒業し、結婚し、夫と私は3人の孫のおじいさん、おばあさんになりました。92年に退職してから、主人と旅行を楽しんだり、日本文化をアメリカの地で伝えたくて、現在は茶道を気の置けないお弟子さんたちに教えています。

 

私の誕生日に母が、「紅薔薇の 露のままなる愛しさに 泣くことなかれ 病むことなかれ」の句を詠み色紙に書いてくれました。これまでの半生を振り返り、母の願いのようにあまり泣くこともなく、大病もせずに過ごせたこと、家族やご縁のあった多くの皆様への感謝でいっぱいです。

 

1958年に初めてNYを訪ねた時、エンパイアステートビルの屋上で。
パーティに日本の着物を着てきて欲しいとリクエストされ、インド人のルームメイト、レユニカと、Penn大の先輩ジュリーと共に。

<村瀬さんに質問!>

- アメリカに渡った当初、英語の面で不便を感じたことはありませんか?

 

不思議と、英語が下手だから…というような劣等感を感じたことがなかったのです。それは英語力に絶対の自信を持っていたからではなくて、何語だろうが、自分の言いたいことをはっきり伝えればそれでいいと思っていたから。まぁ、小さい時から図々しい性格だったのかも知れませんね(笑)

誰かと比べて英語がうまいとか、へただとか、そんなことは気にしてもしょうがない自分をありのままに伝える。それ以上に自分を良く見せる必要などないでしょう?

 

- アメリカで生活して、一番苦労したことはなんですか?

 

様々な生活習慣や考え方を持ち、経済力や教育にも個人差のある人たちがひとつの社会で暮らしているのがアメリカです。相手のために絶対に正しいと思うことでもなかなか理解を得ることが難しかったり、誤解を受けて意地悪をされたこともありました。でも、その"違い"がアメリカの面白いところだと思います。自分はいったいどんな人間で、何をしたいのかを考え、"自分"をしっかりと持つことが大切だと思います。

 

- アメリカに住んでよかったと思うことは、どんなことですか?

 

もしもずっと日本で暮らしていたら、縁故や社会に甘え、しがらみに縛られていたと思います。

一番良かったと思うことは、子供たちをのびのびと育て、それぞれの好きな道を歩かせてやれたことでしょうか。子供の時母に、「私たち人間は何のために生きるの?」と問うたことがあります。「次の世代に自分よりも優れた子孫や芸術作品、学問の研究を残すためよ」と母は言い切りました。その意味では、自分の使命を少しはまっとうできたかと自負しています。

 

- これから海外へ出て行く若者たちに、何かアドバイスはありますか?

 

海外でも通用するような"自分のやりたいキャリア"を持つことです。看護婦さんでも、コンピュータ技師でも、仕事を通して社会へ奉仕ができ、自分も経済的な基盤を確保する…これは大切なことです。私自身も、アメリカの社会に入り込んで仕事ができたことがとても楽かったし、多くのことを得られたと思っています。

 

 
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