日本人パイオニアが語る Once upon a time in America: 第2回: 英語大好き青年が生んだ"日米間ビジネス・異文化教育" 村上健さん  
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日本人パイオニアが語る

Once upon a time in America

 

第2回: 英語大好き青年が生んだ"日米間ビジネス・異文化教育" 
村上健さん


 


 

村上健さんのProfile

1934年 京都の丹波に農家の長男として生まれる
1957年 高校(京都)、大学(大阪)を卒業後、UCLAに入学
2年後に教育学で修士号を得る
1960年

日本に帰国して、大阪YMCAに就職
以後15年にわたりYMCA英語学校で多彩なプログラムを展開し、その間多くの 英会話教材を編み出す

1968年 ULCA大学院に戻り言語心理学を2年間研究
1976年 南Californiaに移住し、NBI(ビジネス・スクール)を創設 以後15年間当校の学長として歴任する
1990年 居をSan Franciscoに移し、ICS, ITRI,Meridian Associates などの会社を興し、日米間ビジネス異文化教育に邁進する
1995年 アメリカ市民に帰化
2000年 退職を機に趣味として俳優・モデル業にいそしむ
住居を Santa Cruzに移し現在に至る
  Riverside YMCA理事会役員
  Rotary International Magnolia Chapter副会長
  California Vocational Education Counsel 顧問

 

夢の海外留学 

僕が初めてアメリカの土を踏んだのは1957年ですから、今からほぼ50年前です。23歳の時でした。その頃の日本では軍用機は飛んでいましたがCommercial Airline(民間の旅客機)など目にした事もなく、"ブラジル丸"という移民船に乗り込んで2週間余りかけて太平洋を渡りました。海以外は何も見えない毎日の生活でしたので、はじめてアメリカ大陸を見た時の感動は今でも憶えています

 実家は京都丹波の貧しい百姓だったので、経済的に大学に行くことすら大変で、ましてやアメリカ留学など夢にも考えたことがありませんでした。それでも僕は中学時代から英語が好きで、メチャクチャに英語を勉強した。その結果、中学・高校・大学を通して英語は誰よりもよく出来たのです。中学の卒業旅行で伊勢・志摩に行った時、初めてアメリカ人らしき白人を遊覧船の上で見かけて、勇気を出して話しかけてみたんです。驚いた事に、僕の英語がほとんどちゃんと通じたんですよ!それを見て、英語の担当の先生もびっくりしてました()

 大学時代に、当時進駐軍(日本に駐在している米軍のこと)だったVernon Spencerというアメリカ青年と親友になりました。一緒に旅行をしたり、丹波の実家に連れて帰ったりして、兄弟のような関係になったんです。その彼の両親が初めて日本に旅行でやって来まして、僕がガイドとして案内してまわりました。旅行が終わって日本を発つ前日、Spencer夫妻が僕に、「君がアメリカに留学したいのなら、費用は全部みてやるから、すぐにでも渡米しなさい」と言ってくれたのです!夢に見ることさえ許されなかったアメリカ留学が突然に現実化することになったのです。夫妻がLos Angeles郊外に住んでいたことから、学校はUCLAに的を絞って願書を出し奨学金を申請したところ、学校側から「学費のみ全額を支給する」との嬉しい通知が届きました。こうしてUCLAの大学院に入り、2年間で教育学の修士号をとりました。このように、僕の渡米のいきさつは"ラッキー"というひと言に尽きると思います。

 ところで、当時兄弟のようにしていたその青年Vernon Spencer "へんな外人"の域を超えた男ですが(笑)、彼はその後もずっと日本の宝塚の山奥に住みつき、YMCAや甲南女学院高校で教鞭をとっていました。現在は同地で隠居生活を送っています。こうして僕とVernon Spencer は、互いに生まれた国と住む国を交換した形になってしまったんです(笑)

 

はじめてのアメリカ、はじめてのマイカー 

最近では日本からの留学生がたくさんアメリカで学んでいますが、僕の時代の"アメリカ留学"は、今とはだいぶ様子が違っていたように思います。その頃のアメリカは、現在のような"極端な金持ち"か"酷く貧しいか"のどちらか、という社会構成とは対照的な社会でした。いわゆるMiddle Classと呼ばれる中流階級が断然強い時代で、豊かで大らかな"古き良きアメリカ"だったと感じます。当時既にUCLAはマンモス・キャンパスでしたが、さすがに留学生の数は少なく、たった62名しかいなかったという記憶が残っています。1ドル=360円の固定相場制でドルが非常に強い時代だったので、日本人留学生にとっては金銭的負担が大きかった筈です。僕の場合は、親友の両親Spencer夫妻のお陰で学費から生活費まで全額面倒をみてもらいましたので、なんとかやっていけましたが。

 1949年型ドッジところで、家から大学までは相当な距離があり、バスも電車も通っていなかったので、通学にはどうしても車が必要でした。Spencer夫妻のことを僕は半強制的に"Mommy"," Daddy"と呼ばされていましたが(笑)… アメリカのDaddyは僕に中古の車まで買ってくれたんです。たしか丸い背中をした1949年型のDodge車でしたが、これが僕のはじめてのマイカーだった。今だったら、ヴィンテージカーとして高価な車なのでしょうが…() そして、Daddyいわく、「これはお前の車だから、クルマの面倒はすべて自分でみなさい」。そこで、ガソリン代や車の維持費を稼ぐための方法を考え始めました。

 そんなある日、教育学部長から突然に呼び出しを受けた僕は、何か叱られるのかと恐る恐る学部長室を訪ねました。日本の様子や僕のこれからの抱負についていくつか質問に答えたあと、学部長がいきなり、「これから毎週末、うちに来て庭の手入れをしてくれないか?」と言うのです当時のCaliforniaではGardener(庭師を職業としている日系アメリカ人が多かったので、僕も生まれつき庭の手入れに長けているとでも思われたのでしょうか() 百姓の息子とはいえ多少畑仕事を手伝ったくらいの経験しかなかったのですが、ポケットマネーを稼ぐにはよい機会と即座に引き受け、ガソリン代の捻出に励みました。

 Californiaでの生活に少し慣れてから、UCLA地区にあるWest Side YMCAで少林寺拳法を教えはじめました。日本で四段の資格を取っていたのが、ひょんなところで役にたったものです。静禅としての従来の禅も当時のアメリカで人気がありましたので、武道を初めて「動く禅」とした紹介したところ、これが驚くほどの評判になり、当時LAタイムズ紙の2ページをとる記事になりました。最大で200人ぐらいの道場に膨れあがりました。門下生の中には、ハリウッドのスターも数人混ざっていましたよ。

It's my turn!

 UCLAの大学院を卒業後、一時日本へ帰国して、大阪にあるYMCAの英語学校で15年ほど英語を教えました。この頃から、実践英会話のテキスト的なものを沢山書きはじめました。中でも、当時の同僚との共同著作"成人のための英会話訓練"... ビミョーなテーマでしょう?(笑)」この本は、増刷十数回を重ねて100万部近く売れ、僕のベストセラーになりました。アメリカに戻ってからも異文化コミュニケーションと英会話を中心とした実用書を書き続け、全部あわせると25冊ほどは出版したと思います。

 日本の英語教育現場で経験を積んだ後、南Californiaへ戻り、National Business Instituteという学校を設立しました。高校卒業資格者を対象としたビジネス・スクールで、州政府から教育奨励のためのバックアップを受けて設立した学校です。この学校では、日本からも積極的に留学生を受け入れました。自分が若い頃にSpencer夫妻からビッグチャンスを与えて貰い、それまで予想もしていなかったような人生を切り開くことができました。It's my turn!今度は僕が、後輩の日本の若者たちにチャンスを提供する番だと思ったからです。National Business Instituteの卒業生の中には、現在日本でかなり重要なポストについて活躍をしている人達もおり、嬉しく思っています。

 1990年にSan Franciscoに居を移し、今度はIntercultural Communication Specialistsという社会人向け教育を行う会社を創設しました。アジア... 特に日本とのビジネスを求めている在米の企業を対象に、日本特有のビジネス文化や慣例を教え、商談や交渉がスムースに進むよう支援するのが仕事でした。ちょうどその頃は日本経済が絶頂期で、欧米の多くの会社が日本企業の考え方や仕事の進め方を学ぼうと懸命になっていましたから。今日世界に名を知られているシリコンバレーのハイテク大手企業の多くが、弊社のお客さんでした。 

 日本の会社、特に国際市場で働く日本人の英語力は年々向上しています。表面上は流暢にペラペラ話せるのですが、アメリカ人側に意図が正しく伝わっているかは、別の問題です。どうも思うように意思の疎通ができていない。相手は分かってくれたと思いこんでいたのに、全く予期していなかった結果がでてくる。問題は言葉の上の流暢さではなくて、物事をどう考え、どういうプロセスで表現し、相手の言うことをどう受け取るか。お互いの異文化を受け入れようとする姿勢に基づいたコミニュケーションができなければ、真意を伝え合うことはできません。そこで、Intercultural Communication Specialistsが提供する教育サービスが求められたのです。 

 長年やってきた教育現場から引退した今は、Santa Cruzという海岸沿いのリゾートの街で6歳になる息子の相手をしながらのんびりした生活を送っていますが、当地はUCSC (California大学Santa Cruz校)も近く勉強に適した環境です。今までの半生の教育経験を生かす意味でも、大学内のエクステンションの英語学校で特別コースのプロモーターを務めています。フルタイムの仕事は引退したとはいえ、やはり教育の現場からは離れられないようです(笑)

 

<村上さんに質問!>

- 村上さんは、ハリウッド映画にも出演されていたとか?

 

'Bartleby'の一場面モデルや俳優のタレント業(笑)をはじめたのは、かなり歳をとってからです。驚くでしょう?この器量と年齢で(笑)でも、年齢を経たこの顔だからこそ、案外の需要があったんですね。もし僕がもっと若くてハンサムだったら、寧ろ相手にされなかったでしょう(笑)TIME誌のフルページで扱った某大企業の宣伝広告で、CEO役を演じたこともあるんですよ。映画やドキュメンタリーにも出演させてもらいました。芝居は子供の頃から好きで、学芸会などにはしょっちゅう出演していましたから(笑)有名な俳優さんたちと一緒にロケ先で過ごすのは、めったにない面白い体験でしたね。

 

- ご趣味について、うかがえますか?

 

Santa Cruz楽しみはいろいろある中で、一番長く続いている趣味は飛行機です。いかにも"アメリカ的"でしょう(笑)20数年前に購入した四人乗りセスナ機を今でも愛用しています。「もう若くないのだし、このへんでやめておいた方がよいのでは」と家族や友人から諭されるのですが、僕に言わせれば、寧ろ飛行機の操縦は老化防止には最適。どんなミスも許されませんからね。そう信じて飛行機乗りを続けているんですよ。

 また、元来写真も好きでしたから、飛行機の趣味と合わせて航空写真を撮るのも楽しみの一つになっています。他に、テニスはこの数年あるグループに入って、週2回は欠かさず続けています。なかなか上達はしませんが(笑)木細工というかWoodworkingも好きで、今自宅で使っている家具の大半は僕の手作りなんですよ。
上の写真は、自分操縦のセスナ機から撮ったサンタクルーズの街です。

 

- これから海外へ出て行く若者たちに、何かアドバイスはありますか?

 

"グローバルな人間"になるためには、その資格を身につけなければなりません。それは、日本人である意識を低めたり、無くすことではありません。日本人であるという意識はしっかり持ち続けながら、むしろもっと強めながら、新しい要素を身につけていくことです

 先ず、異質なものを受け入れられる人間になること。"受け入れる"ということは必ずしも自分に同化させることではなく、存在を認めることなんです。これにぴったりあたる表現に英語で"Receptive"がありますが、まさにこれなんです。自分のなかで、自分にとって異質なものに対する"受け入体制"を築くことです。外国語を学ぶ場合だって、発音、語彙とすべて日本語とは異質なものだらけです。「これは日本語にない発音だから」とか、「日本人だから出来ない」では前に進みませんよね。 

 次に、忘れないで欲しいのは、言葉を学ぶというのは、その言葉を話す人達のものの考え方とか、価値観までその国の文化全体を理解する事です。表面を走る言葉の流暢さだけでは、コミュニケーションは成り立たないのです。言葉を学ぶ場合、大きな視野からその文化全体を学ぶように心がけてください。そして、自分にとって異質な物事や思考でもすんなりと受け入れられる器を身につけることです。これこそが、グローバル・パーソンズとしての資格だと信じます。

 










 

 
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